顔色を伺う癖

私が入っていた宗教は、新興宗教ではあったけど、決して悪どい宗教ではなかった。
お布施の強要もなく、施設に呼ばれるわけでもなく。壺も売ってなかったし(笑)

前にも書いたけど、アファメーションや引き寄せの核として神や仏があった方がやりやすいんだと思う。イメージしやすいのではないかと思うのだ。
でも私には逆効果だった。
何故なら私は、人の顔色を見てコントロールする生き方をしていたから。
このあたりは、親との関係も含めまた別に書きたい。

私は旦那の顔色を伺う事をやめられたが、今度は仏様の顔色を伺うようになってしまった。
旦那は人間だから、多少のコントロールは通用するけど、仏様=天 にコントロールは通用しない。感謝してないのに、感謝したふり。これでは引き寄せなんて出来るはずがない。
なんちゃって引き寄せ生活。
何もしないより、よほど悪い。

私にとって、心とはコントロールするものであり、人の形をしたものは、顔色を伺う対象だったんだな。
仏様ではピンと来ない引き寄せも、風景や環境や天気として受け止めると、すんなり分かる。
種まきして、待つ。芽が出るまで地面を眺めるのではなく、あとは天に任せて、収穫を受け入れる準備をする。天が私の畑によい天気を与えてくれるかどうかは、私次第。実りを受け入れる用意のない所は豊作になったら大変な事になる。だから、見合った実りしかもたらされない。
私に出来る事は、受け入れる準備。
実りを捌き、余れば分け与え、次に繋げる。
プラスのお礼に、マイナスを起こし、次のプラス、次のマイナスを待つ。
顔色は伺わなくていい。ただ、幸運を受け入れる準備をしっかりがんばろう。

天はロジック

私が宗教を信じていた頃、神や仏様を人間的な存在として捉えていた。これは、戒律的なものが非常に人間的で、常識的で、法律的だったから。また、教祖をあがめる所も理由になっていた。教祖は人間だからね。

でも、アファメーションや引き寄せで言う「天」「宇宙」はロジックで数学的で、機械的。
幸せや幸運の定義がないから、プラスとマイナスの掛け合わせで運が決まっていく。
何とわかりやすい。
神で説明されると納得がいかない部分が、引き寄せだと腑に落ちる。

宗教では、(常識的に)悪い事をしている人がどんどん幸せになるのに、いい人が落ち目である事を「徳の貯金」と説明された。
悪い事をしていても、前世や先祖がいい事をしていた分の貯金があるから、すぐに罰が当たる事はない、と。
いい人が不運なのは、先祖や前世で悪い行いをしたから、業を背負っていて、今いい事をしても、借金を返してる状態だから、なかなか好転しないのだと。
でも、うちの仏様は世界一すごいから、あなたの業は仏様が取ってくれるから、すぐにいい事が起きますよ、そう言われた。

でも、これは一部嘘だと腑に落ちた。
引き寄せの法則に、人の世の善悪は通じない。そもそも因縁や業など無いんだな。あるのは、受け継がれてきた育ち方による、性格や受け取り方のパターン。
そのパターンを変えると、運を発生させて、幸運を掴めるのだ。
それを宗教では、ないものをあるかのように思わせる。ここだけが、私が宗教に怒りを感じる所。
私のように、引き寄せとコントロールの区別がつかない人間には、これは本当に毒になる。
全ての因縁は仏様が持って行ってくれたのに、まだ不孝が続く。それは、自分が日々因縁を作り出している事になる。
私の何が悪いんだろう?毎日自分の駄目な所を探し、いらない反省を繰り返す。
これは病む。本当に病む。

ロジックである事は、本当に目から鱗で、
私が一番救われた部分である。
これで私の問題の9割は解決した(笑)

運を吸う人

アファメーションから少し離れるけど。

友人に、運を吸う人がいる。
私がそう感じているだけなんだけど(笑)
とにかく、彼女の周りには不幸な人しかいない。不幸な人が集まるのか、集めるのか、理屈は全くわからないけど、とにかく不幸な友達コレクションを持っている。

友達自体は本当によい人。誰にでもわけ隔てなく優しいし、感情的になったりしないし、平和主義。
だから不幸な人が癒されにやって来るのかと思っていた時期もあるのだけど、どうも違う気がするのだ。
理屈はわからない。
でも、幸せな気持ちで彼女と話すと、何故か不幸な気分になって帰宅するハメになる。
不幸な気分で話しをすると、もっと不幸な気分になる。
これは私が依存体質だからだろうか?
何となく、近寄りがたくなって距離を置いた時期があり、私はほどほど幸せにやっていたのだけど、久しぶりに来たメールには、友達が自殺したと書いてあった。
背筋が寒くなり、返事が出せなかった。
しばらくして、悲痛な文面のメールが来た。

「心配しています、私の知らない所で苦しんでいませんか?あなたが死んでしまうのではないかと心配で心配で」

こんな感じの文面だった。
不幸なイメージが押し寄せて、怖くてすぐに削除した。

この現象が何か、いまだに全くわからない。
でも、幸せな時は絶対に彼女には連絡しない。何かが吸われる感じがする。

見返りを期待しない3

相手を見ないで、後ろの仏様を見なさい。

これもby宗教である。

嫌な人に嫌な事をされて、マイナスな事が起きたら、プラスの反応をして、ゼロの法則を発動する。すると、運が降ってくる。
私はこれを、プラスの反応をする事で、相手が心打たれて(笑)態度を改めるのだと思っていた。でも違うんだよね。

かなり昔、某六星占術の女傑様が、嫌われ者の神田うのさんを占うという番組があった。
当時私は、ご他聞に漏れず神田うの大嫌い!という視聴者で、女傑様にボコられる神田うのさんを期待して見ていた、と思う。
予想通り、女傑様は神田うのさんをメッタ切り。黙って聞いていた神田さんが、泣き出すか、怒り出すか、放送事故になりそう、と思っていたら。

先生すごーい。私のこと、全部分かってくれてる~!

と、神田さんが、拍手しはじめた。
怒るわけでもなく、悲しそうでもなく、茶化すような雰囲気でもなく。
感心した表情で、ありがとうごさいます!
って言った。
その後は完全に神田さんのペース。
ボコる気まんまんだった(だろう)女傑様は完全に手玉に取られた。最後には、当時神田さんが手がけ始めたパンストの事業に太鼓判を押して、企画は終了。
私は神田さんがすごい人だと感動し、彼女を応援するようになった。

この時起きた事は、
マイナスが起きた=酷い事を言われた
プラスの態度を取った=感謝した
それで相手の態度が変わった

こういう図式だと、ずっと思っていたけど、これではただのコントロールなんだな。

あの時神田さんが得た運は、女傑様を味方にした事ではなく、私をはじめ、多くの視聴者を味方につける幸運を引き寄せたのではなかろうか。翌日会社でも、神田うの、意外と素直だよねって話題になった。
私はあれから、神田さんのファンになった。
彼女の引き寄せを、是非真似したい。

・嫌な事が起きると分かっていても、逃げなかった=そんな企画だと本人も分かっていただろうに、断らなかった=ピンチをチャンスに変えた
・嫌な言葉を受け止めた=感情に振り回されなかった
・マイナスをプラスで返した=悪意を感じていただろうに(あの時の女傑様の言葉は、占い師としては思いやりのない辛辣さだった)感謝で返した
・神田さんが感謝で返した事により、女傑様も柔らかい言葉でアドバイスを送り、有意義な対談で終わった。これはきっと女傑様をも救ったと思う。あのまま終わったら、私はきっと女傑様を占い師ではなく毒舌おばさんと見るようになっただろう。

改めて、神田うのさんはすごい。
友達にはなりたくないけど(笑)すごい。
その後の彼女の活躍は、彼女の引き寄せだと確信している。

見返りを期待しない2

今度はマルチ商法から。
多分日本で一番有名だろうビジネスをしていた事がある。ここでも盛んにアファメーション的な事を教わったが、これはどちらかというと、相手を動かし見返りを得るものだから、自己啓発だろうなと思う。しかし入口はまるきりアファメーションなので、途中に分岐点がある。サイトを回っていて思う違和感と同じで、入口は似ていても、たどり着くのが自分のコントロールか、周囲へのコントロールかの違いみたいな感じ。やっている人によって、分岐点で選ぶ道が違うんだろう。
本当に天の力を得ている人のグループは、華やかではないけど、面子が変わらないグループだったんだろうな。残念ながら私のいた所は違った。

当時、私の夢は花屋だった。花屋というよりは生産者。小さくてかわいい車に花を積んで、街角で花を売る、CMに出てきそうなかわいい夢だった。
因みに私のビジネスは順調だったのだ。
欲しい人だけに売り、やりたい人にだけ教えるだけ。しかし、それが上の人の目に止まった(目をつけられたというべきか)時からコントロールされる道が待っていた。
詳しく書くと長くなるからカットするが、私はコントロールする、される関係に馴染みがあったから、あっという間に自分を見失しなった。ここは親子関係の影響だと思う。
親のコントロールから逃れたのに、また違うコントロールに捕まった。
いつの間にか、花を育てる夢は、花屋チェーンを展開する夢にすりかわり、古いフィアットは、見たこともないBMWの新型車にすりかわった。
当たり前だけど、望んでもいない夢など叶わない。アップラインがタイトルを達成した翌日から、私は家から出られなくなり、そのままビジネスは終了した。

見返りを期待しない

はいはい、また宗教シリーズ。
見返りは相手から与えられるのではなく、天から与えらるものだから、相手に何も期待しなくて良いのよね。
人知を尽くして天命を待つ。
昔の人はすごいや。

こうなると、私がずっと「人」と思っていたものの境界性がかなり怪しい。私が人として扱っていた関係は、ちょっと自分寄りというか、他人を自分の一部と勘違いしてたのではなかろうか。
私が風景と呼ぶ景色こそ、まともな人間関係かも知れない。依存っ気がある私は、他人との境界を間違えていたのかも。

しかし、その考えは、とても寂しい。
私はたった一人で風景の中に立っている。
世の中の人は、みんなこうなんだろうか?
私の思い通りに咲かない花だけど、咲いて私を楽しませてくれる。思い通りに降らない雨だけど、降れば私を潤してくれる。思い通りに実らない作物だけど、実れば私を満たしてくれる。私にできるのは、実りますように、と種まきして、降るのを待ち、咲いたら喜び、実のりに感謝する。
それを人間に対してもすることが、私が執着を手放す道になるんだろうか。

我を引っ込めろ

この言葉は宗教で繰り返し言われた言葉。
とある人のblogで、ああこれが我を引っ込めろという理屈か、と理解。
自分に自信がないから、相手をコントロールしようとする、その心理とは、とてもアファメーションとは違うもので、コントロールが相手に向かってるから実現はしないのね。
夫を見ているうちは、ダメなのだ。自分を見なければ。
その点夫はすごいや(笑)
私が目の前で発狂していても、それは嫁側の問題、と完璧に切り離せていた。私は勝手にもがき苦しんで、自分で解決するために、離婚しない道を選んだ。夫は私に完全に自由を与えた上で、自分の思い通りにしてみせたのだ。すごいや。思い通りにならなかったのは、彼女が逃げてしまった所。そこに執着せずに自由にさせたのも、さすがという所かな。
さてここで、私が同じように執着を捨てていたらどうなっただろう?お互いに待ちの姿勢。自然に解決したんだろうか?